<第四章> 自立期編

「突然の病魔」

しかし、こんなことは長くは続きませんでした。 2年たったら、神様がちゃんと罰を与えてくれました。
20歳のとき、私は池袋からスカウトされ新宿へ行って、新宿からスカウトされ六本木にいま した。現在の六本木ヒルズの場所にクラブがありまして、そこでピアノの弾き語りを兼ねたチーママをしていました。
テレ朝通りの有栖川公園近くにマンションを借りていました。当時家賃は18万円くらいでした。でもまだ価値も分からないし、楽しくて、行け行けどんどんの世界でした。

ところが、お店に立ったある日。お腹がめちゃくちゃ痛みました。どうしたんだろうと思っている間に記憶を失い、気が付くと慈恵医科大学の病院のベッド、しかも酸素テントの中でした。
開いた目に映る景色の中に、酸素テントの向こ う側で、下から手を入れ私の足をなでている母がいました。 何が起こったのか分かりません。自分も体調が悪いのでずっと、天井の電気を見て考えました。

私は、母に2年間も連絡を取っていませんでした。風の噂で父からは勘当されていました。 親戚の叔父さんが説得しにお店に来ても、何を言われても全然聞こえませんでした。

足をなでている母を見ながら、冷静に考えまし た。 私は、高熱が続き面会謝絶が続きました。面会謝絶になって1つだけ教えてもらったことがあります。自分一人で暮らして、友達もいっぱい彼氏もいて、毎日飲んで歌って、親のことは全然思い出しませんでした。しかし、面会謝絶の部屋にたった一人。友達は誰1人部屋に入れてもらえません。身内しか部屋に入れないのです。
私はこの後どうしたらいいのだろうと、ものすごく後悔の念が襲って来ました。

「帰郷、そして大手術」

慈恵医科大学病院でいろいろな検査をしましたが、結局原因が分からないままでした。 その後、島根医科大学にベッドのまま空輸されました。そこでいろんな先生に検査していただいた結果、『卵巣のう腫の癒着』と診断されま した。少し前に宇多田ヒカルさんがやった病気に似ていますが、卵巣の中にバイ菌が入って膨れて破裂して、中で腹膜炎を起こしている状態でした。そこで開腹して左右の卵巣をとるといいます。

手術室に入る前に、お医者様が私にこう言いま した。
「いまから卵巣を2つ取ることの意味がわかるか。そうすれば100%子どもは出来な くなる。僕の娘なら僕は悲しくて辛いし、君のお父様を知らないわけじゃない。右側の機能が少し生きているので、右側を少しだけ残して、 あとは全摘する。もしときどき生理が来たら、 子どもを産む機能が生きているかもしれないけれども、それはわからない。だから彼氏ができたら、それをちゃんと言うことが1つ。もう1つは別にガンでもないし、治らない病気でもない。20歳のときにいろいろなことを学んだのだから、もう一度自分が戻れる人生を考えろ。 俺の娘だったら殺したい」と言われました。
そう言われても私はどうすることもできず、手術室に入って卵巣のほとんどを取りました。

その後生理は1年に1、2回あります。いつやってくるか分からない状態です。子どもが出来るかもしれないけど出来ないかもしれないという体でした。 父は島根にいましたが、離婚した母は広島の都会の方が良いと広島に住んでいました。 離婚調停の裁判の結果、弟の長男だけが父親の跡を継ぐため父親の姓を名乗り、ほかの3人は大人になってから名字が変わりました。

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日野佳恵子(ひの・かえこ)。島根県生まれ。90年創業。女性(主婦)マーケティングの パイオニア企業として注目を集める。企業・主婦・ハー・ストーリィの三者共働型マーケティングを開発する。「クチコミュニティ・マーケティング」は登録商標。 [ 続きを読む ]

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