<第八章> 創業期編
「さとうみどりとの出会い」
最初は会社を起こすつもりはなく、システムキッチンを売る方法を考えている会社なので、主婦を組織化してもっと意見を集めませんかという企画書を上司に提出しました。
当時は、ベンチャー、ビジネスを考えるなどということはなく、行け行けどんどんの時代でした。企画書をみた上司から「主婦千人集めるのに何ヶ月かかって費用はいくらかかる。集めた人の維持にいくらかかる・・・」などバタバタと言われました。
しょうがない、あきらめるかなと思ったときに、私の隣の席にさとうみどりさんが座っていました。現在の副社長です。
私は正社員、さとうさんはパートタイマーで、デザイン、イラストの仕事をしていました。
私が、「主婦を集めるのに金がかかるのか、維持する費用もかかるのか。それに対して買ってくれる企業はどこがあるのか」と考えて沈没しているときに、隣のさとうさんから「これを使ったらどう」とコピー用紙に「あなたの意見を聞きます。もしかしてお金になるかもよ。登録しませんか」というチラシができていました。さすがデザイナーです。
チラシを10万部刷るのに、印刷費だけで何十万もかかって、折り込みに1部約3円位かかります。さらにさとうさんは「このチラシを今からこっそりコピーして、今日の保育園のPTAに100人くらいのお母さんが集まるからそこで配ってきてあげる。」と言いました。「なるほど、頼むわ。」「日野ちゃんだって保育園に預けているじゃない。あなたも配ったら」 私も早速コピーして、保育園のお母さんに配りました。
頭の中でこれはいくらかかって、何人が集まって、どうなるのかと考えて、全然動かない人もいるのに、彼女はチラシをさっさと作ってその日の夕方のPTAで配って、1週間以内に100名が集まりました。会社には認めないと言われたので、2人でやろう。私たちのように0歳の子どもを抱えながら、夜まで働けない、いつ子供が病気になるか分からない人たちは会社もあまり必要ではないのでさっさと辞めさせてくれました。
それから、3万5千円でワンルームマンションを借り、家賃を払うのも大変でした。私たちはさとうさんが考えたチラシを近所にポスティングして回りました。おかげで数がどんどん増え300人くらいになりました。300人くらい集まった頃、そのチラシを見たある新聞社がやってきて「主婦が会社を起こした。世の中が変わるかも」という記事が地元広島の一番大きな新聞に載りました。次の日会社に行くと、ドアの前に2人の男性が怖い顔で立っていました。「NTTですが、あなた達何かしました?この辺一帯、電話が不通です」と言われました。
「ついに創業!HERSTORY(ハー・ストーリィ)」
1990年8月20日をもって創業し、チラシを自分たちで手配りしました。そして新聞記事が載って9月の段階で、電話が1本しかなかったのでパンクしてしまいました。いつかけても人がいないからと人が毎日訪ねてくるようになって、登録会員がどんどん増えました。
私はこうして起業しました。お金は1円もありません。現在は少ない資金で起業できる制度がありますが、当時、会社には資本金が必要な時代でした。
本屋さんに行って「30日で会社が起こせる」という本を買ってきて、自分で手続きをしました。
ところが、会員の主婦はいっぱい集まったのになかなかビジネスにはならない。企業から仕事がやってきませんでした。「この人たちの意見を聞いてくれませんか」と飛び込んでも、意見など聞く時代ではありませんでした。どうしようかと考えて、登録している人たちを集めてイベントをしよう。元気な女性たちの集まるパーティを主催しました。そうすると100人くらい集まってきました。「主婦も名刺を持ってみよう」と、名刺を持ってきてもらいました。みんなうれしそうに名刺交換をして、おしゃべりをしました。
「主婦が100人集まるパーティなので、企業様10分だけスピーチしませんか」と言って、主婦を労働力として雇っていて、求人をしたいと思っている企業さんにスポンサーをお願いして回り全部契約が取れました。
1ブース10万円で持っていただいて、10分間ずつスピーチをして、そのあとに就職活動の面接をしてもらいます。主婦のための就職ガイダンスもやりました。
お金が取れないのなら、自分たちで考えてビジネスを起こす。そうすることで主婦がいっぱい集まっている会社だと話題になって、また人がやってきます。そのうちに宣伝や営業をしなくても、仕事が入ってくるようになり、主婦=HER STORYとなりました。
ある時、島根県の新聞販売店から電話がありました。
「私は江津市の中国新聞販売店です。次にあなたが新聞に載る日はわかりますか。広島ではシェアナンバーワンの中国新聞ですが島根では全然売れていません。あなたの記事が出るときを事前に知りたいのです。あなたのお父さんはあなたが大好きなようで、あなたが新聞に載ると全部買い占めて病院で配っておられます。いいお父さんですね」という電話でした。
ついに時期が来たと思い、主人に頼んで娘を連れ島根県に行きました。院長室のドアを開け「お父さん」と挨拶をしました。父は「まだ来るのは早い」と言いましたが、その後父とは親子として仲良く出来ました。その7年後父は他界しました。
その後、私はインターネットを使うことにより広島でやってきたモデルを全国に広げ、現在は10万人以上という数になりました。
それと同時に世の中が不況になり、ものがあふれ、情報がありすぎて、今日見たニュースも広告もみんな明日には忘れてしまいます。企業は広告を出しても誰も買わなくなるので、私たちのようなビジネスが必要とされてきました。現在、広島、東京でとても大きな企業と仕事が出来るまでになりました。

