<第八章> 創業期編

「さとうみどりとの出会い」

最初は会社を起こすつもりはなく、システムキッチンを売る方法を考えている会社なので、主婦を組織化してもっと意見を集めませんかという企画書を上司に提出しました。

当時は、ベンチャー、ビジネスを考えるなどということはなく、行け行けどんどんの時代でした。企画書をみた上司から「主婦千人集めるのに何ヶ月かかって費用はいくらかかる。集めた人の維持にいくらかかる・・・」などバタバタと言われました。

しょうがない、あきらめるかなと思ったときに、私の隣の席にさとうみどりさんが座っていました。現在の副社長です。
私は正社員、さとうさんはパートタイマーで、デザイン、イラストの仕事をしていました。
私が、「主婦を集めるのに金がかかるのか、維持する費用もかかるのか。それに対して買ってくれる企業はどこがあるのか」と考えて沈没しているときに、隣のさとうさんから「これを使ったらどう」とコピー用紙に「あなたの意見を聞きます。もしかしてお金になるかもよ。登録しませんか」というチラシができていました。さすがデザイナーです。

チラシを10万部刷るのに、印刷費だけで何十万もかかって、折り込みに1部約3円位かかります。さらにさとうさんは「このチラシを今からこっそりコピーして、今日の保育園のPTAに100人くらいのお母さんが集まるからそこで配ってきてあげる。」と言いました。「なるほど、頼むわ。」「日野ちゃんだって保育園に預けているじゃない。あなたも配ったら」 私も早速コピーして、保育園のお母さんに配りました。

頭の中でこれはいくらかかって、何人が集まって、どうなるのかと考えて、全然動かない人もいるのに、彼女はチラシをさっさと作ってその日の夕方のPTAで配って、1週間以内に100名が集まりました。会社には認めないと言われたので、2人でやろう。私たちのように0歳の子どもを抱えながら、夜まで働けない、いつ子供が病気になるか分からない人たちは会社もあまり必要ではないのでさっさと辞めさせてくれました。

それから、3万5千円でワンルームマンションを借り、家賃を払うのも大変でした。私たちはさとうさんが考えたチラシを近所にポスティングして回りました。おかげで数がどんどん増え300人くらいになりました。300人くらい集まった頃、そのチラシを見たある新聞社がやってきて「主婦が会社を起こした。世の中が変わるかも」という記事が地元広島の一番大きな新聞に載りました。次の日会社に行くと、ドアの前に2人の男性が怖い顔で立っていました。「NTTですが、あなた達何かしました?この辺一帯、電話が不通です」と言われました。

「ついに創業!HERSTORY(ハー・ストーリィ)」

1990年8月20日をもって創業し、チラシを自分たちで手配りしました。そして新聞記事が載って9月の段階で、電話が1本しかなかったのでパンクしてしまいました。いつかけても人がいないからと人が毎日訪ねてくるようになって、登録会員がどんどん増えました。

私はこうして起業しました。お金は1円もありません。現在は少ない資金で起業できる制度がありますが、当時、会社には資本金が必要な時代でした。
本屋さんに行って「30日で会社が起こせる」という本を買ってきて、自分で手続きをしました。

ところが、会員の主婦はいっぱい集まったのになかなかビジネスにはならない。企業から仕事がやってきませんでした。「この人たちの意見を聞いてくれませんか」と飛び込んでも、意見など聞く時代ではありませんでした。どうしようかと考えて、登録している人たちを集めてイベントをしよう。元気な女性たちの集まるパーティを主催しました。そうすると100人くらい集まってきました。「主婦も名刺を持ってみよう」と、名刺を持ってきてもらいました。みんなうれしそうに名刺交換をして、おしゃべりをしました。

「主婦が100人集まるパーティなので、企業様10分だけスピーチしませんか」と言って、主婦を労働力として雇っていて、求人をしたいと思っている企業さんにスポンサーをお願いして回り全部契約が取れました。

1ブース10万円で持っていただいて、10分間ずつスピーチをして、そのあとに就職活動の面接をしてもらいます。主婦のための就職ガイダンスもやりました。
お金が取れないのなら、自分たちで考えてビジネスを起こす。そうすることで主婦がいっぱい集まっている会社だと話題になって、また人がやってきます。そのうちに宣伝や営業をしなくても、仕事が入ってくるようになり、主婦=HER STORYとなりました。

ある時、島根県の新聞販売店から電話がありました。
「私は江津市の中国新聞販売店です。次にあなたが新聞に載る日はわかりますか。広島ではシェアナンバーワンの中国新聞ですが島根では全然売れていません。あなたの記事が出るときを事前に知りたいのです。あなたのお父さんはあなたが大好きなようで、あなたが新聞に載ると全部買い占めて病院で配っておられます。いいお父さんですね」という電話でした。
ついに時期が来たと思い、主人に頼んで娘を連れ島根県に行きました。院長室のドアを開け「お父さん」と挨拶をしました。父は「まだ来るのは早い」と言いましたが、その後父とは親子として仲良く出来ました。その7年後父は他界しました。

その後、私はインターネットを使うことにより広島でやってきたモデルを全国に広げ、現在は10万人以上という数になりました。
それと同時に世の中が不況になり、ものがあふれ、情報がありすぎて、今日見たニュースも広告もみんな明日には忘れてしまいます。企業は広告を出しても誰も買わなくなるので、私たちのようなビジネスが必要とされてきました。現在、広島、東京でとても大きな企業と仕事が出来るまでになりました。

<第七章> 決意期編

「起業を決意するまでの道のり」

私は、家にいながら、世の中が必要としているビジネスが生まれるかもしれないと思い、夫に「主婦のネットワーク」という事業計画書を作って見せました。

「こんなビジネスがあったらいいと思うんだけど」というと、「赤ちゃんがいるし、体が強くないのだから家で静かにしていた方がいいよ。何人も子どもが生めないと思うので、子育ても大切にしていこうよ。それにビジネスは主婦ができるほど甘くない」と言われました。

主人は住宅会社の営業マンです。「自分で会社をするなんて、パートやサラリーマンならわかるけど。それに、アイディアは面白いけど、これではどうやって儲けるのかよくわからない」と言われたので、サラリーマンで勤めようと思い広告代理店にアタックをかけました。

私は20代からずっと、主婦を組織化して消費者の声を集めたらきっと欲しい人がいるはずだと思っていましたが、自分にはビジネスセンスはない、事業計画もわからないのでどこか勉強へ行こう。広告代理店なら企画やマーケティングを教えてくれると思い、アタックしました。子どもが1歳になる前のことです。
私が入ったのは、システムキッチンをショールームで販売促進する専門の広告会社でした。

システムキッチンを買うのは主婦です。私はいきなりシステムキッチンの販売促進担当になりました。システムキッチンを売り込むのに会議が頻繁にありました。会議は男性が大半で決定権のある会議に女性はいませんでした。

現在、買い物の決定権は8割が女性です。しかし、商品を作るメーカー側の役職は8割以上が男性です。そこでミスマッチがおき、今は、女性の声が聞きたいという社会になっています。

当時、私は販売促進の会議に呼ばれては、アイデアを出していました。が「なるほど、その企画で何個売れるんだ。」と必ず聞かれました。君の企画はいくらかかって、それに対して何組契約をするか、その根拠は何か。ビジネスとは冷たいものです。私はお客さんが喜べばいい。いつか買うかも知れないと思いました。

今回のキャンペーンで何組が契約するか、毎日会議をしていました。いくら使ったらいくら入るのか、それが分からなければやらない。根拠のないことには投資はしないと、ビジネスは大変なんだと思いました。

私が提案してもいつもダメなので、私も考えました。会話をする際に相手の話を否定せず肯定から入ると心を開いてくれます。これはテクニックです。

「今度の企画どう思う」「すばらしい企画だと思います」本当は別の企画にしたいので「でも、私は働いている女性で男と同じなので専業主婦の気持ちはわかりません。私はこちらがいいと思いますが、近所の主婦100人に聞いて参りました。書類を配ってよろしいでしょうか」と全員の机の上に資料を置いて「8割の女性は別のこちらの企画がいいと言っています。どうされますか」。ざわざわとなって初めて企画を聞いてくれました。

「この8割はどこでとった?夫の年収、職業は?。年齢はどのくらいで子どもは何歳?車は何?商圏はどのへんで、人口はどのくらいの町か?」ビジネスをする人はなぜ人の心は無視して数字でものを見るのでしょうか。「彼女たちはこっちの方が楽しいと言ってます。」「大至急、採り直してこい。300人のサンプルを採れ」マーケティングでは人のことをサンプルと言います。300のサンプルを取ったらより確実になります。

私はこの瞬間にやろうと決めました。私の意見は一人の意見だけど、買うべきターゲット(お客様)の層で圧倒的な数の人の意見を集めることができたら、世の中は動く。こうしたいと思って、私は会社を起こすことに決めました。

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<第六章> 出産期編

「奇跡の出産」

25歳になり、私にも彼が出来ました。彼には正直に「子どもが出来ない」と言いました。「まぁ、いいじゃん」と言ってくれる彼で 「結婚しても仲良く暮らせればいいね」というノリで結婚をしました。

一生働かなければいけないと思い、忙しくタウン誌の仕事を続けていました。27歳のある日、車で営業に走っているとき、突然気分が悪くなり「私も一流の営業マンなんだ」と思いました。
実は父にはもっと迷惑をかけていたのです。小学5年生のときに学校でお腹が痛くなり、保健室の先生から急性盲腸だと言われましたが、病院に運ばれても盲腸ではなかったのです。

「大丈夫です。お薬を飲んだら治ります」と言われて父親の病院に戻されました。しかし、父が白血球を測ったら異常に増えていました。おかしいと思った父が私のお腹を開腹したら、胃潰瘍で胃に穴が開いていました。

小学5年のときに胃を2/3ほど取っています。20歳のときに卵巣を取っているので縦と横に傷があります。あとで「お父さんがお医者様だったから助かったけど、普通の家だったら絶対に命は助かっていなかったですよ」と言われました。でも人間というのは元気になったらそんな感謝も全部忘れるものですね。

私の胃は1/3残っており、それも普通に戻ると聞いていたのですが、ちょっとむかむかするので、胃潰瘍かな?と思い外科に飛び込みました。
そうしたら、お医者様が「ちょっと聴いてくれる。これは赤ちゃんの心音です。あなた妊娠してます」と言われました。奇跡の子どもでした。頭の中が真っ白になりました。できないと聞いていたのに、子どもができたと言われ、これはETか、産んでいいのか。ものすごくびっくりしました。

その後、産婦人科に移されて、お腹の中の写真をもらいました。何も知らないお医者様が「君は卵巣もないし、胃もないみたいだからこの命は大切にしなければダメだよ。頑張ってね、お母さん」と言って送り出してくれました。
家に帰り、母と夫に子どもが出来たと言うと、「それはめでたい、滅多にできることではない。このまま動き回って流産したら大変だから、すぐに会社を辞めろ」と言う話になりました。

私は編集長をしていたのでいきなり辞めることは出来ません。副編集長に一生懸命仕事を引き継いでいましたが、社員の頭数が少ないので気が付いたら、10ヶ月まで働いていました。
お腹はパンパンになって、生まれる寸前まで働いて、そのまま婦人科へ行き元気な女の子を産みました。
その子が生まれて、私は感謝してお母さんをしようと思いました。自分が親となって家族の絆を実感しました。私は勘当された父へ結婚式の写真付きはがきをこっそりと送っていました。

が、父からはなしのつぶてでした。連絡は一切ありませんでした。それでも子どもが生まれたことだけは知らせておこうと思い、子どもの写真付きのはがきを送りました。

ある日、弟から電話がありました。「姉ちゃん、俺は腹が立ったんだ。姉ちゃんが送って来た赤ちゃんの葉書を、姉ちゃんところに赤ちゃんが生まれたよと言って渡したら、見たくないと言ってはたき落としたんだよ。俺は腹が立ってけんかになったよ」

いちいちかけてくるな。聞いたらもっと腹が立つじゃないと思ったのですが弟が怒ってそんなことをいちいち連絡してきます。
でも私は、しょうがない、まだタイミングではないと思って、子どもが成長するたびに写真を撮ってはこっそり送っていました。

私は専業主婦になりましたが、このまま家庭にいていいのか、音大を辞め、六本木で歌を歌って挫折し、頑張ってタウン誌の編集長にまでなって、子どもにも恵まれました。しかし、私はもう一度何かをしないと、人生はどうなるのだろう。そんなことを悶々と考えているうちに、もう一度勉強し直して、世の中に戻ろうと思いました。

その後、夫と10年ぶりに父に会いに行きました。連絡をして行くと断られる可能性が高いのでいきなり病院の院長室を訪ねたのです。「こんな首のすわらない乳飲み子を長距離で連れてくるなんて・・。もっと大きくなってからにしろ」と孫を心配してくれました。こうして父とは徐々に和解して行きました。


「再出発への道のり」

私は現在起業家になりましたが、すべて導かれている気がします。なぜかと言うと、子どもができないと言われた私に子どもが与えられたこと、そして社名はHERSTORY(ハー・ストーリィ)。私は夜の世界を飛び歩いたり、一生懸命にキャリアウーマンをしてきたので、主婦と言う人たちには一切興味がなく、うるさいおばちゃんだと思っていました。

子どもがうまれて、目から鱗でした。赤ちゃんを持つということは、もう1つの命がそこに存在します。子を持って初めて親の気持ちがわかると言います。娘が胃潰瘍でお腹を切るということが起こったら、私は悲しくて死にそうになるし、もし娘が大学に入って、自分で退学届を出して夜の街に消えたら、心臓が切り刻まれそうです。遅すぎますが、母はこうだったんだということを娘を持って知りました。

この子にとってどんなふうに生きていく母親になるべきか、子連れでもう1回就職するにはどうしたらいいかも考えましたが思いつきませんでした。私は机の上で、気づいたことをメモしました。当時日本にはベビーシッターというビジネスがなかったので、子どもを持っている人は歯医者に行くのも大変でした。なら歯医者さんで託児をやったらどうか。赤ちゃんを持った途端に映画館にいけない。では映画館に託児をつけたらどうか。そんなことをメモしました。自分の環境が変わると、いろいろなことが見えます。今ではトイレに行くと赤ちゃんを座らせるコーナーがあります。あれも昔はなかったものです。お母さんが赤ちゃんを抱っこしながらトイレに行ったら、どうやってパンツを下ろすのか。不便だな・・。といろいろと考えてはメモしていました。

起業家や社長ということは考えたことはありませんが、こんなものがあったら便利だなということをメモしたことと、もう1回世の中に戻って自分の人生をやり直したい。この2つでした。

何か仕事をしなければと思っているときに、新聞で「家庭にファックスを普及させるのにはどうしたらいいか」という企業の企画書コンテストを見つけました。

私は、ファックスのお客様カードに「あなたが興味のあるものは何ですか。インテリア、家具、ファッション、マネー、保険・・・チェックしてください。あなたの欲しい情報をあなたの家にファックスします」と書いて、自分の欲しい情報がファックスでもらえる会員制度の企画書を出しました。すると不思議にも当たって、5万円と楯とファックスが家に来ました。佳作か2位かそんなところでした。

ファックスがやってきたので、もといたタウン誌や取引先の会社、広告代理店にファックスしました。「日野佳恵子。おうちにいます。原稿の作成、コピーライティング、リライト、校正、こんな仕事ならおうちでもできます」と営業をしました。在宅ワークの走りですが、まだ在宅ワークという言葉がありませんでした。ファックスをしたら、早速仕事が入り始めました。私はこうして家で仕事が出来る時代がやってくると思いました。

そのうちに、「日野ちゃん、マンションの主婦5人くらいに、今度出た新商品のアイスの味をどう思うか聞いてくれない」という仕事が来ました。私も昔、お客様の声を聞くというのをやったけれども、それを聞きたい人がいるんだ。そう思って、私はマンション中の奥さんに「すみません。今度のこのアイスを知っていますか」と聞きまくっていました。

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<第五章> 再起期編

「タウン誌就職事情」

私は母方の姓になって広島へ行きました。友だちは1人もいません。町も知りません。
そこで就職活動を始めました。当時はインターネットもリクナビもないので、タウン誌、新聞をみて、履歴書を持って歩きました。

しかし、就職は厳しいものでした。大学を辞めて、その後2年間飲み屋で歌っていた、そんなよくわからない女の子は危なっかしくてしょうがないのでしょう。普通の事務も受けましたが、20歳くらいですからちょっとでも格好いいところしか考えません。地元の中小企業などよくわからないので、私は有名企業ばかり受けにいきました。中途採用ですから配送や受付といった仕事ですが、全部落ちました。私は一生懸命に企業を選んでいましたが、相手も選んでおり私みたいな子はダメでした。

アルバイトをするしかない。とりあえず時給で稼げるところに入ろうと考えました。
花屋さんでアルバイトをしたり、いろいろなところに勤めてみました。口がちょっと達者だったし、歌も歌えたし、音楽にもちょっと詳しかったので、ミニFM局が拾ってくれDJをしました。小さな番組でしたが、おしゃべりをして音楽を流すという仕事をしていました。

そうするとそれを聞いている人から、「口も立つし行動力もありそうだからうちに来ないか」とタウン誌での就職の話がありました。私はよくわからないままタウン誌の会社に入りました。
私は何になりたいという夢は全然なかったのですが、たった1つの夢は父にお詫びに行くことでした。

しかし、フリーターをしている自分がいやで、まだ謝りに行くことはいやでした。
高校3年生のときにあれだけお金を出して音大まで行かせてもらって、自分で稼ぐとどんなに大変かがわかっているのに、このまま「お父さん、ごめん」は言えませんでした。

父が「お前もちょっとは頑張ったな。武蔵野音大を勝手にやめられて、俺はものすごく憎んだけど、まぁよくやったな。しょうがない」と言ってくれる日はいつだろう。それがただ、1つの夢でした。

私はタウン誌の会社に入社しました。もちろんこのような業界の仕事は未経験でした。出版社は仮の名で、タウン誌のビジネスモデルは営業広告です。広告が取れてなんぼ、広告を取らなければ出版できません。広告営業が花でした。

「お前、文章は書けないし(でも国語は得意だったのでかけるようになったのですが)、印刷のことはわからないし、写真のことはわからない。お前は元気がよくて足腰が強そうなので、営業に行け」と言われました。

20代の私は広島の本通りという一番大きな商店街に立ちました。友達、知り合いといった人脈もなく、どうしていいかわからないので、私は商店街の入口に立って深呼吸をして、着物屋さんに入って、「すみません。こんにちは。○○タウン誌ですけど、広告をください」「広告?いらない」。「すいません。こんにちは。店長さん。広告を出してもらえませんか」「広告?うちは広告は要らないよ」。「すいません、こんにちは」と商店街を全部行きます。私は地図が書けるほどお店を覚えています。商店街を歩ききっても1件も取れない。1ヶ月に30万円稼いでいた女が、3万円の小さな枠が1日歩いて1つも取れない。もう1回行ってまた戻ると契約が取れない日が何週間も続いていました。

「初の広告契約成立!」

あるとき私は贈答品屋さんに飛び込みました。ちりめんや漬け物など、私が買いそうにないものが贈答品として並んでいる店でした。

「こんにちは、広告を下さい」「広告は要らない」。もう慣れているので「わかりました。すみません、名刺だけ置いていきます」と言うと奥から男の人が出てきました。
あとでわかったのですが、その人が社長さんでした。

その後、ビジネスは決定権のある人を狙えというのがよくわかりました。当時はわからないですから、こんにちは、こんにちはとやっていました。
奥から出てきた人に、「君は前にも来たよね。広告をくれと言うけど、広告3万円を出すと、うちはいくら売り上げたらいいか知ってるか」と言われました。
「3万円というのは、俺の会社が繁盛するために使う金だ。3万円を出す価値を感じたら、それ以上になる方法を教えてくれるなら、広告を出す」。ここで価値が出ました。3万円以上、お客さんが来る保証があれば出すと言うんです。広告だから保証はないです。

「すみません、今はアイデアがないので失礼します」と出ようとしました。そうしたら、「待て、君でもできることがある。それをしたら今日3万払ってやろう。君はこの商店街を行ったり来たりしているけれども、俺の店で買い物をしたことはあるか」。
私が行きそうもないような店です。「君がうちでよく買ってくれている常客だったらとっくに出している。買いもしないやつが俺から金を取るのか」怒られるのはいやですから、「すいません。わかりました」と出ようとしたら、「でも君にもできることがある。店はいつも来てくれている常客さんも大事だけど、買わない人がどうしたら買うのかを勉強したいんだ。なぜ君はここで買わないのか、ここで語れ。」と言われました。

「20代の子は贈答をするのか」「バレンタインのときにチョコレートは買います。彼ができたら、クリスマスにプレゼントをします」。「贈答はしないのか。贈答はどういうイメージだ」「お中元とかお歳暮ですね」「では、この店を見てどう思う」。そのお店はほこりっぽかったので、「ここは食べ物が置いてあるのに、けっこう足元まで置いてあって不衛生な気がするのと、ほこりっぽくていやです」と言ってしまいました。
怒られるかなと思ったら、社長さんが「食べ物が足元にあると不衛生でほこりっぽいか。お前ら聞いたか、ここの食べ物を少し上にあげることはできないか。お前たち、ここをちゃんと雑巾で掃除しているか」。周りにそんな命令をされました。

これが私のマーケティングとの出会いです。企業はお客様に出会いたい。企業は商品を売りたいためにさまざまな投資をするということを3万円で知りました。また買わない人がどうしたら買うのかを考えることもビジネスになると知りました。この社長さんは「君はいいことをいっぱい教えてくれたから、3万円を出してやろう」と言われて、始めての契約が成立しました。

「消費者の意見を知ること」

私はこのときにコツをつかみました。相手が知らないことを知っている。つまり買う側の意見を知ることもビジネスになると知りました。

たとえばケーキ屋さんに入ります。今までは、「広告ください」「広告はいらない」と言われると名刺を置いていたのに、黙ってお店を見て、ケーキを買ってみることにしました。ケーキを買って、家に持ち帰って食べてみます。
会社に行って、事務や編集のスタッフに「このケーキ屋さんってどう?」と聞いてみます。「あそこは何とかケーキはおいしいけど、チーズケーキがまずいんだよね」「チョコレートケーキだったらどこどこだよね」とみんなよく知っています。「昔はチーズケーキにすごく並んでいたんだよ。でも最近ちょっとまずくてさ」そんな話がボロボロ出てきます。私はそれを一生懸命にノートにメモしました。

商店街に戻り、今度はケーキ屋さんでお客様の入ってくる流れをみます。みんなはどのケーキを買うのだろう。見ているといろんな会話をしながら選んでいます。そこで情報収集をしてから「すみません、店長さんいらっしゃいますか。○○タウン誌ですが、御社のお店の取材をさせていただけませんか。」私は広告という言葉をやめました。「取材ですか、それはうれしいですね」とお店から出てきます。ここもポイントです。お金を取られるのはいやだけど、メリットになることはみんな好きです。
「お店を紹介するコーナーをつくりましたので、取材記事を載せさせてください」と言うと、いろいろ一生懸命話をしてくれ、仲良くなります。そして、ほかの店舗などの情報収集したことをもとにお話をしました。
「君、おもしろいね」という話になったところで、「一緒にフェアをやりませんか。とてもおいしいケーキ、店長さんが苦労して集めた大切にしている栗なら、記事のかたちで広告にしませんか」そんな話に持ち込むと広告が本当によくとれました。

ビジネスはお互いにメリットがなければ意味がないのです。お互いがウィン・ウィンの関係でなければいけません。お金を出すからには必ず価値を求めます。それは売り上げという価値のときもあるし、ものという価値、情報という価値のときもあります。

私は毎日、商店主さんたちとの出会いの中で本当に勉強させていただきました。

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<第四章> 自立期編

「突然の病魔」

しかし、こんなことは長くは続きませんでした。 2年たったら、神様がちゃんと罰を与えてくれました。
20歳のとき、私は池袋からスカウトされ新宿へ行って、新宿からスカウトされ六本木にいま した。現在の六本木ヒルズの場所にクラブがありまして、そこでピアノの弾き語りを兼ねたチーママをしていました。
テレ朝通りの有栖川公園近くにマンションを借りていました。当時家賃は18万円くらいでした。でもまだ価値も分からないし、楽しくて、行け行けどんどんの世界でした。

ところが、お店に立ったある日。お腹がめちゃくちゃ痛みました。どうしたんだろうと思っている間に記憶を失い、気が付くと慈恵医科大学の病院のベッド、しかも酸素テントの中でした。
開いた目に映る景色の中に、酸素テントの向こ う側で、下から手を入れ私の足をなでている母がいました。 何が起こったのか分かりません。自分も体調が悪いのでずっと、天井の電気を見て考えました。

私は、母に2年間も連絡を取っていませんでした。風の噂で父からは勘当されていました。 親戚の叔父さんが説得しにお店に来ても、何を言われても全然聞こえませんでした。

足をなでている母を見ながら、冷静に考えまし た。 私は、高熱が続き面会謝絶が続きました。面会謝絶になって1つだけ教えてもらったことがあります。自分一人で暮らして、友達もいっぱい彼氏もいて、毎日飲んで歌って、親のことは全然思い出しませんでした。しかし、面会謝絶の部屋にたった一人。友達は誰1人部屋に入れてもらえません。身内しか部屋に入れないのです。
私はこの後どうしたらいいのだろうと、ものすごく後悔の念が襲って来ました。

「帰郷、そして大手術」

慈恵医科大学病院でいろいろな検査をしましたが、結局原因が分からないままでした。 その後、島根医科大学にベッドのまま空輸されました。そこでいろんな先生に検査していただいた結果、『卵巣のう腫の癒着』と診断されま した。少し前に宇多田ヒカルさんがやった病気に似ていますが、卵巣の中にバイ菌が入って膨れて破裂して、中で腹膜炎を起こしている状態でした。そこで開腹して左右の卵巣をとるといいます。

手術室に入る前に、お医者様が私にこう言いま した。
「いまから卵巣を2つ取ることの意味がわかるか。そうすれば100%子どもは出来な くなる。僕の娘なら僕は悲しくて辛いし、君のお父様を知らないわけじゃない。右側の機能が少し生きているので、右側を少しだけ残して、 あとは全摘する。もしときどき生理が来たら、 子どもを産む機能が生きているかもしれないけれども、それはわからない。だから彼氏ができたら、それをちゃんと言うことが1つ。もう1つは別にガンでもないし、治らない病気でもない。20歳のときにいろいろなことを学んだのだから、もう一度自分が戻れる人生を考えろ。 俺の娘だったら殺したい」と言われました。
そう言われても私はどうすることもできず、手術室に入って卵巣のほとんどを取りました。

その後生理は1年に1、2回あります。いつやってくるか分からない状態です。子どもが出来るかもしれないけど出来ないかもしれないという体でした。 父は島根にいましたが、離婚した母は広島の都会の方が良いと広島に住んでいました。 離婚調停の裁判の結果、弟の長男だけが父親の跡を継ぐため父親の姓を名乗り、ほかの3人は大人になってから名字が変わりました。

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<第三章> 挫折期編

「自活への道のり」

音大に入学してすぐ、両親の仲が悪化し、離婚調停に持ち込まれていた時期があります。

「離婚することになるけれども、お母さん生きていく自信がないの。明日からどうやって生きていったらいいかわからないの。どうしたらいい?」 私は生きる、生活をする、お金がないということは考えたこともありません。しかし18にな って、この母の1本の電話で、女の人は何という生き方をしているのかと思いました。 そのうちにだんだん腹が立ってきて、何もかもが嫌になりました。何も疑問に思わず、ぜいたくをしてきたお嬢さんが、ある日突然そんな電話をもらって、遅れてぐれてしまいました。

その日1日、寮で考えました。 私は大学を出てから何をするのか・・。イタリ アでオペラ歌手になりたいか。なりたくないです。音大を出たら素敵なお嬢さんになるのか。 自分の母のようになるのか。母は大好きだけども、自分は何をしたくてここにいるのだろう。

真剣に考え、1週間後。自分の判断で退学届をだし、自活の道へと踏み出しました。

「クラブでの弾き語り生活」

退学届けを出した後、私は池袋まで出ました。 池袋の町中を歩いて自分に出来ることは何かを 考えました。池袋で看板を見ていたら、唯一私がやっていけそうなものがありました。音符と ピアノのマークが付いているようなクラブが、 ピアノの弾き語りを募集していました。 そこへ、ピアノの弾き語りをしたいと言って飛 び込みました。「弾いてみろ」と言われて、弾きながら歌を歌いました。

「なかなか面白いじゃん」「雇ってくれませんか」「今夜からステージどう?」「わかりました。でもその前にお願いがあります。絶対に3ヶ月辞めませんから、 給料を前借りさせて下さい。」とお願いをしました。

寮を出てきたので、時給1000円や、 1500円をもらっても住むところがないのです。免許証も何ももっていませんでしたが、そこで3ヶ月お金を前借りしました。 そのまま、池袋周辺の不動産屋でアパートを探 しました。練馬から徒歩5、6分のところに6 畳一間を借りました。その日のうちに手付けを 打ったのですが、布団はない、机はない。ハンガーも石けんもゴミ袋もない。包丁も皿も何も ないんです。戻ったほうがいいかしらと思っても後の祭り、私はその日から歌を歌いながら稼 ぐという人生になりました。

「父からの勘当宣言・・・」

クラブで歌う毎日を送っていました。
ステージは夕方7時くらいと9時くらいの2回、ラッキーな日は12時くらにも歌います。
20年以上前ですが、当時1ヶ月の給料は、ステージを毎日3回やったら30万でした。

18歳の女の子がひと月に30万円も得るのです。「世の中、 ちょろいもんじゃん」と思いました。
ところが、たいした苦労もしないで得たお金は、全部洋服やバックや毛皮に消えていました。

美容院にも行き放題。貯金なんて考えたことがありませんでした。お酒を飲んで、得意なピアノを弾いて、毎日楽しくてしょうがなかった。同級生もいっぱい遊びに来てくれました。

しかし、娘に夢を託した父からすれば、勝手に大学を辞め、夜にクラブで弾き語りをしているのが耐えられなかったのでしょう。風の噂で、 父からは勘当されていました。

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<第二章> 思春期編

「女子校で男になる・・?!」

私は島根県の田舎町で生まれ、島根県で中学校まで行きました。
高校は、父親からお嬢さん学校に行ってくれと言われて岡山のノートルダム清心というカトリックの学校の寮に入りました。言わずと知れたお嬢様学校で「ちゃんとした教育を受けさせたい」という親心からだったのでしょう。
しかし自由奔放な中学時代を送っていた私にとって「すごいところに来たなぁ」というのが偽わらざる心情でした。

高校に入ってから私は「男」になりました。(オナベになったわけではありません!)バレーボールを続ける傍ら、デュオのフォークグループを組んで作詞作曲をし、学園祭やコンテストに出て唄ってました。気がつけば、黄色い声援であふれ、手作りプレゼントやラブレターを、また、バレンタインにはかなりの数のチョコレートをもらったこともありました。

「武蔵野音楽大学入学までの道のり」

私は別に将来の夢はありませんでしたが、ちょっとだけピアノとギターと歌ができました。
高3の進路指導で「音楽大学はどう」という進路の先生の勧めで決めました。
これは、音楽家になりたかったが叶わなかった父の夢でもあり、娘の私が音大を受験すると聞いた父は大賛成でした。 音大へ進む人は、小さなときから先生に付いています。私は高3から音大を目指しましたから、ほかの授業は捨てて、五線譜の問題集を解いていました。 当時、父は開業医、母は薬剤師で家は豊かでした。

父親が私が突然音大に行くと言い出したので、イタリアでオペラ歌手にしたいと思ったのか、毎週東京の音楽大学の教授のところにレッスンに通わせてくれました。

私は土曜日に東京に来てレッスンに行き、市ヶ谷のYMCAに泊まって、日曜日に帰るという信じられない暮らしをさせてもらいました。
滑り止めの小さな音楽大学もいっぱい受けましたが、だめもとで武蔵野音楽大学を第一志望にしました。

ところが、第二志望と第三志望の大学は落ちたのに、第一志望の武蔵野音楽大学声学科に合格しました。
武蔵野音楽大学は、1、2年生は池袋から西武線で埼玉に入った仏子にあります。3、4年生になると江古田に出てきますが、1、2年生のときは山奥の大変美しい景色の中で大学に通いました。ここでも寮生でした。

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<第一章> 幼少期編

生死を分けた『うんてい首吊り事件』

私は、4人兄弟の長女として母方の祖父が院長をしている病院で産声を上げました。
幼少時代は、父が広島大学病院のインターンだ ったため、広島で過ごしました。病気知らずでスクスク育ち、1つ年下の弟や3つ違いの妹と一緒に元気いっぱいの毎日を過ごしていました。
病院のそばの官舎に住んでいま したが、目の前の公園は格好の遊び場でした。その公園で記憶に痛烈に残っている怖い思い出があります。

名付けて『うんてい首吊り事件』。

おてんばで、元気いっぱいだった私は、首に当時流行っていたお気に入りのネックレス型のコンパクトをかけて、いつものように公園で遊んでいました。うんていの端までいって、前転して降りようとしたとき、なんと、コンパクトのチェーンが棒に巻き付いてしまいました。
運悪く、そのチェーンは腕の長さより短く、まだ幼い私には自分の力で体を持ち上げることは不可能で、首吊り状態になってしまいました。たまたま(本当に偶然)公園内にいた大人が気付いて大急ぎで駆けつけて助けてくれたからよかったものの、危うく命を落としてしまうところでした。「その人は、若いお兄ちゃんで、私の命を助けてくれた白馬の王子さまなのよ」と思ってます。

「父のカンで助かった命」

小学校1年の時、医者である父の開業に伴って島根県の江津市に移りすみました。ここで小・中学時代を過ごしました。『サインはV』の影響で小3からバレーボールを始めたスポーツ少女で、クラス委員を何度もつとめました。
「このクラスをまとめるにはどうしたらいいか」「友だち同士のいざこざを治めるにはどうするか?」などよく考えていました。

それが原因かどうかは分からないけど、小5のある日、バレーの練習中に腹痛に襲われ、木陰で休んでいたら、痛みが激痛に変わり、先生の手で担架にのせられ、車で父の病院に送られました。程なくして痛みはとれ、元気になったかのように見えましたが、父の医者としてのカンが働いたのでしょうか?採血したところ白血球の数が異常に増えていました。そのため、大至急手術のできる総合病院に運ばれました。
小学生という理由で切開をためらう病院側と父との押し問答の末、緊急手術を受けました。
父の見立てどおり胃に穴があいていたため、胃の1/3を切除しました。

あの時、父の決断がなければ、手遅れになっていただろうと思います。私自身、痛みのせいで感覚がマヒしていました。3ヶ月に及ぶ入院生活を経験し、小学生にして元気に動けることの有り難さをしみじみと感じました。

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日野佳恵子(ひの・かえこ)。島根県生まれ。90年創業。女性(主婦)マーケティングの パイオニア企業として注目を集める。企業・主婦・ハー・ストーリィの三者共働型マーケティングを開発する。「クチコミュニティ・マーケティング」は登録商標。 [ 続きを読む ] 日野佳恵子のfacebook

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